U 思い出の風景


いつもと同じに朝は来る。


藍子は軽くトーストしたパンへスクランブル・エッグをのせて、
母がカップまで暖めてくれているハーブ・ティーに練乳を落とす。


セーラー服に着替えたら、いつもと同じにマンションの玄関へとしゃがみ、
スニーカーの紐を指に取る。


まず、激しい動悸から始まった。次に息がつけなくなり、
めまいが起こる。結わえない靴紐。


藍子は両手と両膝を付き、とったばかりの朝食を、すべて玄関へと嘔吐した。


更にめまいは酷くなり、一瞬、視力を失う。


全身の脱力。藍子は吐瀉物の上へ、崩れ落ちた。


「藍ちゃん! 」


 母の佐和子が、すかさず気づいて駆け寄った。


肩を抱きかかえてもらうと、呼吸が正常に戻り、視界を覆った黒い靄も消える。


 母を見ているような、何も見てはいないような。


濃い睫を震わせながら、切れ切れと藍子は言った。


「お母さん、わたし……がっこう、行きたくないの……」


 ただごとではない娘の様子。佐和子は慌てた。


すぐさま触れた冷んやりした額は、ぐっしょりと発汗している。


手早く、濡れたタオルで汚れと汗を拭いてやり、着替えを手伝う。


佐和子はマンション下の駐車場まで娘の手をゆっくりと引いて、
白いワゴンRへと乗せた。


焦りを抑えてハンドルを握り、近くの総合病院へと車を走らす。


しかし途中、後ろを振り返り、娘を見れば、頬にはほんのりと色がさしていた。


「お母さん。なんだか私、ムカムカしなくなっちゃった」


 ケロリと微笑む娘が、「FMを付けて」と頼む。


信号待ちでブレーキを踏みながら、
ラジオに合わせて鼻歌を口ずさむ娘の首筋に、手を当てる。


「汗も、止まったみたいね」


 雰囲気の似た母子であった。


心の模様をそのまま映し出すかごとくの、黒目がちな、
深い瞳。共にセミロングの髪は、佐和子の方は肩でカールが揺れており、
藍子はさらりと風になびく。


 病院では、CTスキャンまで撮った。


その日の内に、医師から簡単な所見を聞かせてもらう。


「九月に入ってからも、残暑は続いていますし、
バテ気味、でしょうな」


 それだけのものだったが。


 藍子は病院の地階にある食堂で、
素うどんを汁まで平らげ「買ってもいいよね」、
そう言ってポテトチップをニコニコ齧る。


 前夜、娘は全身を、すり傷だらけのずぶ濡れにして帰ってきた。


「ころんじゃって、川に落ちちゃったぁ」


 むろん、佐和子は驚いた。


「夏希に助けてもらったの。ああ、恥ずかしいよぉ」


 口を大きくして笑う藍子は、普段と変わらず。


あどけなさに納得させられたが。


 氷がつまった珈琲グラスを、佐和子は細いストローで掻いた。


「ふぅっ、今年は暑かったからね。そろそろ疲れが出る時期なのかしら」


 棚に設置された旧型のテレビが映す、昔のアニメ。


袋菓子をぱくつきながら眺める藍子は、まだまだ小学生みたいだ。


(杞憂だわ。明日はきっと、元気に学校へ行けるはず)


 けれど、次の朝も同じ症状が起こった。


玄関で藍子は、突然の呼吸困難と胸苦しさに襲われ、うずくまり、倒れた。


 見送ろうとして玄関にいた佐和子は、
動転する気を必死に隠し、娘の背中をさする。


「藍ちゃん、しばらくお家で養生して、体調を完全に整えましょう」


 藍子を寝かせたベッドの脇で、佐和子は佇み、
頭の中では夕食の献立を消化の良い物に練り直す。


すると、十五分ばかし経った頃には、昨日同様、藍子の顔へ生気が戻る。


「おかあさぁん、ビデオ見ちゃダメ? 」


 などと甘え声を出しながら、起き上がってきた。


 血色の良さには安堵した。ただし、ちらついていた懸念が確信となり、
庇護の思いが佐和子に満ちる。


「いいわ、ただし横になったままよ」


 娘に悟られないよう、佐和子は子機の電話を浴室に持ち込み、
中学校との連絡を静かに済ます。


「藍ちゃん。お母さんね、お昼からお買い物行ってくるから。
ビデオでもゲームでも、好きにしててちょうだいね」


 一人娘の頭をそっと撫でると、きっちり戸締りをしてマンションを出た。


「イジメなどありませんよ。太田さんはクラスでも好かれている方だし」


 母親よりも年かさな女性担任は、佐和子の心配を一笑に付す。


佐和子は一昨日からの様子をこと細かに話してみた。


「お母さん。思春期の、特に女の子は体の変化も顕著ですし、
どの子もそれは色々とありますよ」


 貴重な昼休みを割いてくれた担任の目が、
佐和子の顔と、頭上の丸時計の間を、ゆっくりと揺れる。


「でもまぁ、太田さんは素直な生徒ですし、ちょっとしたいざこざでも、
過敏に反応してしまう事もあるかもしれませんねぇ」


「そんな……でも」


 佐和子が食い下がろうとすると、掲示板を兼ねた衝立の裏から、
初老の校長が格子縞のネクタイを締め直しながら現れた。


「ああ、お母さん。今朝の電話の内容は、
先生から聞いておりますよ。
さぞかしご心配でしょう。担任はもちろんですが、私にも、どうぞいつでもご相談ください」


「校長先生、あのう……うちの娘、クラスから浮いているのではないかと……」


 娘の異変を、一から再び訴える。


「承知しました。お母さん。お子さんを登校させてください。
私どもの方でも、太田さんから直接に話を聞いて、調査しましょう」


 佐和子の胸に、学校の先生とは言え『所詮は他人』
……嫌な言葉が浮かんでしまう。


佐和子は再度、娘は学校へ来ないのではなく、
朝、来られない状態になるのだと、丁寧に説明した。


(どうせたいして伝わりはしない)


 そんな思惑を隠しながら。




【0002】

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